昨日はとても幸せな気分になれたお休みでした。
疲れ気味ではあったので、読みかけの中島義道氏の「哲学の教科書」を最後までのんびりと読むことにしました。
哲学って不思議な言葉だと思いませんか?その内容はなんだかよくわからないけど、「哲学」っていうとなんだか賢そうな気がする。博学になった気分。例えば、「太極拳の哲学」なんて題のついたブログを見るとすごいことが書いてありそうな気分になります。
でも「哲学」ってなんだろう、って改めて考えるときちんと定義ができない自分を見つけました。哲学と思想って何が違うのだろう、哲学と宗教は?人生論との線引きはどこにあるんだろう?特に思想とか人生論と置き換えられる意味で「哲学」を使っている例ってかなりありそうです。
私自身は、哲学に大いに興味があってこの本を読み始めたわけではありません。池田知久著「老子」の中に「老子の哲学」という章がありました。ここで使われている哲学という言葉に引っかかって、「そもそも哲学ってなんだっけ?」という疑問を持つに至り、この本を読み始めるに至りました。
哲学に興味を感じたことは今までも何度かありました。大学の頃、友人が一般教養で哲学の授業をとっていて、なんだか知的な感じがして、哲学に関する本を読んだことがありました。その後も同じような経験が何度か。その結果、これまでの私の哲学のイメージは、昔の有名な、頭の良い哲学者が諭した難解な内容で、それを理解しているふりをしてうまく使えると自分も賢く見える、という感じのものでした。半分は見栄、半分は知識欲です。どちらも老子が取り除かなければいけないもの、と語っていることです。
この「哲学の教科書」は、見栄と知識欲で塗り固められた私の哲学感を変えてくれました。解説の中で「この本は哲学氏のダイジェストではない」と書かれている通り、昔の哲学者の言葉が羅列されているわけではありません。「哲学的な問題そのものに読者を誘い込むという目的で書かれた」本です。私も見事に誘い込まれました。
初めの方で、哲学と他の分野、思想や人生論、宗教は何が違うのかという説明があります。その後、哲学ではどんな問題を扱うのか、という説明をして、哲学はなんの役に立つのかという方向へ進んでいきます。
「最大の哲学問題は「死」である」というのが初めの章のタイトルです。「死」に対して「生」はなんなのか?生きている、あるいはいつかは死ぬ「私」とは何か?「私」に対する「他人」とは何か?存在するってどういうことなんだろう?時間ってなに?因果関係って?哲学ってこれらの問題に疑問を感じ、徹底的に問い続ける学問なのかな、って気分になりました。昔の人が何を言おうと関係ない、自分が問い続ける姿勢を保つことが「哲学」を追求するためには必要なようです。
なんだかすごくスッキリした気分になれました。「哲学者」と「哲学研究者」という二つの似て非なる言葉が出てきました。後者は、昔の人が言ったことの研究、前者は根底にある哲学的な疑問を問い続ける人、だそうです。
ここで、ふと、自分は「太極拳研究家」になっていないか、と不安になりました。過去の人が言ったこと、師匠が言ったことを正確に理解することだけに陥っていないか、という不安です。過去の人が言ったことはさておき、師匠が言ったことを理解することは必要です。でも、他人が言ったことをまとめて、自分のところに習いにきた人にそれを教えるだけではなく、自ら太極拳とは何かを体感し、自分の言葉として現していく。姿勢であれ、内面の問題であれ、とことん問い続けて、本当に自分のものにしていく態度を忘れないようにしたいと感じました。
哲学の目標は、「自分自身になること」だそうです。何か良いこと、価値のあること、役に立つこと、為になることを目指して生きるのではなく、「生きる」ことそのことの絶対的な重みを考える必要があると言われています。
「われわれの偉大で光栄のある傑作とは、ふさわしく生きることである。その他のことは、統治することも、お金を貯めることも、家を建てることも、皆せいぜい付帯的に字的な事柄にすぎない(モンテーニュ)」
この本、いろいろなことを考えることができてとても面白く読むことができました。今までの私だとこれを機にいろいろな哲学の本を読むことになっていました。今回も哲学は面白そうだとは感じましたが、そちらに脱線することなく、元々この本を読むきっかけを与えてくれた「老子の哲学」を読み解くことに戻ります。
半日近くかけて本を読めた休日。豪華な晩餐よりも美味しいお酒よりも楽しめました。
これからもいろいろな話題を紹介していきます。
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