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執筆者の写真Mitch Sato

「易の話」(4)ー 対待という考え方

金谷治氏の「易の話」を紹介する第4回目です。


世の中いろいろな対立があります。善悪、男女、剛柔、強弱などなど。日本人にとって、こういった対立する概念は、反対の性質を持ち、互いに排斥しあう、相容れないもの、だと考えることが多くないでしょうか。昔はどうだったのかは知りませんが、今の日本人はかなり西洋的な発想の影響を受けているように感じます。西洋的な発想では、対立するものは、反対の指向性をもった価値観で、どこまでも交わることのないものだそうです。善はどこまで行っても善、悪はどこまで行っても悪。善と悪は、互いに戦うもの、悪の方から積極的に善を突き崩すようなデモーリッシュな関係すらありうるものだと考えるようです。


こういった理解に基づいてしまうと、太極拳が目指すところがなかなか見えてこないのではないかと思います。私がこの「易の話」という本から学んだ最大のことは、中国人が考える「対立」の考え方が西洋的なそれと大きく違うということです。


「対待」という言葉があるそうです。単に対立するだけではなく、反対でありながら、お互いに引き合うような関係を意味します。もともと対立するためには、対立する相手の存在が必要になります。つまり相手が存在してこそ対立が生じる、対立しながら、相手の存在に寄りかかっている。反対の価値を認めながら、どこまでも争って相手を排斥するような立場をとるのではなく、対立を正しく認識して、現実に問題に対処していくようにしていきます。


例えば、善と悪。悪は、善が欠如している状態、というのが中国的な発想だそうです。善と悪が全く違った方向を示す性格のものではなく、より一層善、とかより一層悪、という発想を生みやすくなります。


こう考えると、「反対するものが相手をうちに含む」という発想が理解できるのではないでしょうか。善とされるものよりも少し悪の性質を持っている。善とされる人が、自分の中の悪を少しずつ削っていくとより善に近づいていきます。


太極拳の説明で、陰の中に陽があり、陽の中に陰がある、といった説明を読んだことはありませんか?これは決して太極拳固有の表現ではないことがわかると思います。


剛と柔を考えてみましょう。ボクシングであったり、ジムでの筋トレであったりって、極限まで筋肉を鍛えて、力を出すことを前提としているように感じます。「剛」をとことんまで極めるって感じです。より速い、より力づよいパンチは、筋肉を固く、強くすることで生まれるという発想ですね。


太極拳の「剛」って大きく違う気がします。まさに「剛」のなかに「柔」があり、「柔」の中に「剛」がある。より大きな力を出すためには、身体を固くするのではなく、むしろ柔らかくする。リラックスをすることで、身体の中の必要な部分だけを必要なだけ動かすことで、余分な力を使わず、より大きな力を生み出す。「剛」と「柔」が違う方向性をもった性質のものだという発想からは生まれてこない考え方だと思います。


虚実も一緒だと思います。虚歩(軸足は足の裏をしっかり地面につけ、反対の足は前に出して、つま先立ちになるような座り方)の時、実になっている軸足の足の裏の中にも、しっかりと地面を支えている部分(例えば、踵、母指球など)と支えることにはあまり寄与していない部分があります。実の中にもさらに実と虚が存在するわけです。


「虚」は、空っぽでむなしいこと、無なること、微妙で分かりにくいこと。「実」は、充実充満していること、有なること、具体的なこと。そしてすでに説明をした通り、中国的な発想では、虚は序だけでは存在せず、実もまた実だけでは存在しない。両者は関係しあってこそ存在します。


中国画は、空白を尊ぶそうです。空白は何も描かれていない部分、というのではなく、空白にこそ積極な意味を持たせます。空白があるからこそ、書かれている部分が生かされてくるそうです。


無極と太極を考えるときのヒントもここにあると思っています。何もないという状態があるからこそ、存在しているものが生かされてくる。西洋的な発想に使ってしまっているとどうしても、無極と太極は具体的には何が違うのか、というところを出発点にしてしまいがちだと思います。単に対立する概念ではない、片方が存在するためにはもう一方も必要なんだと考えてみると、太極拳で套路をする前に無極功をすることに意味があるのかがわかる気がします。


この対待という考え方は、中国人のいろいろな問題を現実に即した方法で処理することにつながっているようです。西洋的な突き詰めた対立は、実は論理的に抽象化された世界でしか存在しえないということができます。中国人の対立はある、でも、相容れないわけではない、というのは実際の生活の中の知恵のように感じます。


今回、この本を自分なりの理解で紹介することを試みてみました。本日ご紹介した内容を始めて読んだときに、「なるほど」と非常に感動したことを記憶しています。ただ、改めてこうやって文書に起こしてみると、自分が感じた感動の多くは伝えられていない気がしますし、そもそも自分が抱いた感動が本当に正しかったのか、と疑問を感じるところもあります。


いつか金谷氏の本のことばを借りないで、自分のことばでこういった内容をきちんと説明できるぐらいまで理解を深めていけたらと思います。



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