昔から、太極拳をやるときは「意」「意念」が大切だとよく言われてきました。うちの師匠もよく言います。
銭育才著「太極拳理論の要諦」にも、「意識の先導作用(動作に先立って意識を先行させる)に注意することです。太極拳の練習では、常に「まずは心にあり、それから身体にある」という原則を守るべきですから、意識の先導作用の重要性はいくら強調してもしすぎることはありません」とあります。
前々から、この内容にはなんとなく納得ができないものがあります。太極拳の動きはゆっくりなので、何をやろうとしているのかを意識して動いているのか否かで見た目が大きく変わるのは理解できます。相手を打たなければいけない動作のところで、単に相手に触れるだけのような動きをしてしまったら、何をしようとしているのか見ている人にはわかりません。
でも、意識が強すぎると動きがわざとらしくなるのも事実です。自分はこの動きはなんのためにあるのか知っているよ、っていうのを見ている人に伝えたい、という意識まで感じられてしまうと、ちょっといやらしい感じがします。ひょっとしたら、こういうのを「我」が強く、「我」が強く香る動き、っていうのかもしれないです。
それ以上に、不思議に思ってきたのは、思ってから動いたら、実践では使えないのではないかということです。相手がこう動いたのを見て、それに対してどう対応するのかを意識してから動き出したのでは、相手に対して遅れをとってしまいます。特に銭氏がいう「先導」という言葉に引っ掛かりがあります。
「参禅入門」にこんな一節がありました。
「剣道の伝書に「心手相かない、億忘一のごとし」という語がある。心は手を忘れ、手は心を忘れて両者全く一つものになったはたらきをいう。たとえば、敵と相対したとき、ここと思うときにはすでに手が動いて打っている。そのあいだに髪の毛一本を入れるほどの間隙もない。あるいは、手がサッと相手を打ったときは、心がそうしようと動いたと同時である。このように自分と剣とが一如した境地が心手相称うということであろう」
なんとなく、心と身体は別物だと考えがちで、心(脳)が身体にどう動くのかを命じるのかと考えてしまいますが、実際は、心と身体は一体で(心身一如)で、心が思ったのと同時に身体が動く、心が思った通りに身体が動く、っていうところまで練習を繰り返すのが、「意念」が大切だということなのかな、って気がしました。
上の引用に先立ってこんな一節があります。
「われわれは、ともすれば「おれが座禅をする」と考えるが、それでは坐禅と自分の二人づれのもので、乾坤只一人底のものではない。おれが坐禅をするのではなく、坐禅が坐禅をするのでなければならない。こういう消息は一度でもいいから本当になりきって、完全に我を忘れた経験がないと、ちょっとわかりにくいかもしれない」
本来の坐禅はこうあるべきだという説明の一部なのですが、心を落ち着けて、思いのままに身体を動かせるようにするためには、「おれが太極拳をする」とか「おれが相手を打つ」とあっていうように自分を主語にしていてはいけなのかな、って感じてます。
まだ答えは出ていませんが、「先導」する時間が限りなくゼロに近づいていくという前提で考えれば、今までモヤモヤしていたものがずいぶん綺麗になりそうです。
でも、実は根底で解決できていない問題があります。そもそも「意」ってなんなんだろうか、っていうのがよくわかっていません。この「意」や「意志」というのは、哲学でも取り上げられるほどの問題だそうです。「意志」と「思うこと」は違うそうです。この話はまだまだ深くなりそうなので、別の機会に書くことにします。
これからもいろいろな話題を紹介していきます。
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