シンガポールでの修行生活もあと10ヶ月。ふと思いました。やらなければいけないことをきちんとやっているかと。
最近、本を読んで新しい知識が入ってくることが楽しくて、そちらに時間を使いすぎていた気がしてきました。本を読むのは楽しいです。新しい知識が増えるのはもっと楽しい。それによって新しい見方ができるからです。
楽しいことに時間を使っていると、苦しいことに時間を割かなくなってきます。そんな状態になってきたのではないかと危惧し始めました。
昔、自転車に真剣に乗っていた頃、週末は読売ランドの周りの決まったコースでチームの人達と練習をしていました。読売ランドの周りは、丘陵地帯で、坂が結構多いのです。結構長い坂もあり、短くて急な坂もありました。まだコースを覚えきれていない頃、先輩に言われたことがあります。道に迷って分岐に来たら、苦しそうに見える方に進めばとんでもない方向に迷い込むことはないと。苦しい、イコール、上り方向です。読売ランドのあたりは山が続いているわけではなく、平地にポコっとできている丘陵地なので、上り続けている分には、この地域から大きく離れることはありません。そのうち他のメンバーと合流できます。逆に楽をして下ってしまうと、どちらの方向に下っていくかわからなくなります。
こんなことを思い出して、今の自分の置かれている立場を考えてみました。
シンガポールでの時間が限られているのだから、シンガポールでしかできないことをまず最優先にする必要があります。師匠から直接学ぶことをしっかり身につけること、これが最優先。これに関しては、それなりにできていると評価しています。週に2、3回個人レッスンを受けて、習った内容を反復練習してきています。
中国語の資料を読み漁ることも、シンガポールにいる時の方がやりやすいと感じました。外国語の資料は、読むのに時間がかかります。時間に追われているとできない作業です。それに加えて、シンガポールには中国語を話せる友人がたくさんいるので、いつでも聞くことができる。特に、太極拳関連の資料は、古い時代の中国語で書かれているので、誰でも彼でも質問に答えてくれるわけではありません。今までも、結構な確率で質問しても、わからない、と言われています
中国語がそれほど得意ではない私にとって、この作業は非常に苦しいです。わからないことを一つ一つ解きほぐしていく地道な作業になります。なので今まで目を瞑ってきました。それではいけないかなと、感じています。
こう感じるようになった理由は、套路を教えるための教本を書き始めたことです。もっと色々な知識がないと、書く内容がどうしても薄っぺらになってしまうのです。例えば、套路の一つ一つの動作がなぜそのように呼ばれるようになったかです。師匠からも聞きますが、しっかりと出所を確認しておきたいと思っています。
きちんとした用語を使いたいので、そのためには、太極拳理論の文書に出てくる用語はきちんと押さえておきたいと思います。
シンガポールにいなくてもできるのですが、時間的な制約から今やならなければいけないこともあります。来年の秋の教室開設に間に合わせるためです。套路の教本を書くことはその一つです。もう一つ、套路をやるときにかける音楽に合わせて行われているインストラクションの日本語化です。先代の師匠が吹き込んだ広東語のインストラクションが今の教室では使われています。うちの師匠は、いくつかの理由で、中国語化も英語化もしていません。私が学び始めた頃、正直、この広東語のインストラクションには苦労させられました。全くわからないので、どのタイミングでなんの動作をして良いのかは、周りの人の動きを見ながらついていくしかありませんでした。
シンガポールで広東語を使うのは、この言葉を話し、理解する人がそれなりの数いるので、まだ説明がつきますが、日本でこれを使い続けることは、サービスを提供する側の怠惰にしかすぎません。
日本語を決定するためには、広東語の内容をきちんと理解する必要があります。繰り返しれ練習の際に使ってきているものなので、8割ぐらいはわかるのですが、問題は残り2割です。これを把握するのには、繰り返し聞いて、わからなければ誰かに聞かなければいけません。広東語を話せる人でも、太極拳がある程度わかっていないと正確な答えが返ってこないことは経験済みです。本当に時間のかかる地道な作業です。
優先順位を決めることの大切さは、仕事をしていた頃から十分に感じてきているのですが、ここにきて改めてその大切さを痛感しています。
楽をしないで、やらなければいけないことに注力していきます。
これからもいろいろな話題を紹介していきます。
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